私の所属する新日本歌人協会高知支部の機関紙『土佐みずき』(7月号)に掲載した私の文章を掲載します。
「きけ わだつみのこえ」の木村久夫の遺書がもう一通
処刑直前に「辞世」の歌といっしょに残す
風も凪(な)ぎ雨も止(や)みたり爽やかに朝日を浴びて明日は出(い)でなむ
心なき風な吹きこそ沈みたるこゝろの塵(ちり)の立つぞ悲しき
東京新聞2014年4月29日付け一面トップに「『わだつみ』に別の遺書」と掲載され、『わだつみ』では削除された遺書の抜粋と処刑半時間前に書き終えた新たに見つかった遺書の全文などが5面にわたって掲載されている。「際立つ戦争の不条理」「学びの思い最期まで」「私に代わり自由な社会で自由な進歩を」などの見出しがある。この東京新聞の記事と碓田のぼる先生の本をもとに、筆をとりたいと思う。
戦没学徒の遺書や遺稿を集めた「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)の中で、短歌を織り交ぜた木村久夫の遺書は、「本文の末尾」に特別におかれている。獄中で愛読した哲学書の余白に書かれたものだとされていたが、実際は今回見つかった遺書と合わせて編集したもので、多くの削除、加筆があった。辞世の歌(巻頭の2首)も今回の遺書にあったが、後の歌は違うものになっていた。それが次の歌だ。
おののきも悲しみもなし絞首台母の笑顔をいだきてゆかむ
木村久夫は、1918年大阪府吹田市生まれで旧制高知高校を42年3月に卒業、4月に京都帝国大経済学部に入学、10月に召集され、43年9月にインド洋・カーニコバル島に配属。46年5月23日に、住民を拷問して死なせたとしてB級戦犯に問われ、無実を訴えたが処刑された。二八歳だった。なお、当事者だった上官は罪を免れている。
木村久夫は、吉井勇に傾倒し、旧制高知高校時代から高知県の香北にある渓鬼荘に何十泊もしている。猪野沢温泉の主人の今戸顕さん(故人)は、小学生のころ、木村久夫が来るとよく遊んでもらい可愛がられたという。顕さんは、優しかった「木村のお兄ちゃん」の面影を忘れることができず、足跡を猪野々に残すために関係者に呼びかけ、1995年の五十回忌に、木村久夫の遺書の中の次の一首が刻まれた歌碑を建立した。
音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を
碓田のぼる先生の本より紹介する。
明日のあることこそ、青春の特権であるのに、その明日さえ、自分から「音もなく」去ってしまったという木村久夫の痛恨の深さを思う。しかもなお「明日という字」を書いて、人間のもつ未来へのつながりを、捨てようとしない。一首の世界は静謐(せいひつ)で諦念(ていねん)にたどりついているような歌である。私は『きけ わだつみのこえ』一巻の最後に木村久夫の遺書が置かれていることの大事さを思った。(『無党派+共産党の時代』178ページより)
碑文には、「木村久夫君の獄中絶筆を拡大して刻む」とある。撰文には次のように記されている。
無実の戦犯として処刑された学徒兵 木村久夫君の非業の死を偲ぶ風化されざる哀惜の思いが君の五十回忌に当り人々の心に湧然と甦りその結果歌人吉井勇に傾倒し旧制高知高等学校時代の青春の日々よく訪れた香北町の勇隠棲の「渓鬼荘」に勇の碑と並んで君の誕生日に歌碑が建立されることになった田辺元著「哲学通論」の余白に死の直前迄切々と書き綴った君の遺書は飽くなき学問への情熱 隣人と祖国への心からの感謝と愛情が注がれており「きけわだつみのこえ」に収められ 万人に感動を与えている歌は運命を淡々と受けとめた澄み切った心境で獄中において歌いあげた十数首の作品の中から私達の心にいつ迄も刻みこまれていると思われる一首を選んだ今後いくとせ春来れば猪野々の山々を白雲が棚引き 秋訪れれば物部の清流のささやきに耳を傾ける静かな自然の輪廻は悲惨な戦争を拒み平和を希求する「明日」という字を讃えて永遠に過ぎ行くことであろう
四国の中で、地域密着型の自然エネルギーへの取り組みが進んでいると思われる徳島を、須崎と香美市の議員と7月16日17日に調査。
一般社団法人徳島自然エネルギーの事務所を訪ねこれまでの取り組みを詳しく教えてもらった。
そして佐那河内村のみつばちソーラー発電所に案内してもらった(田んぼの向こうにある写真)。ここは先の徳島県議補選の時街頭演説に来たばかりで景色の記憶が残っていた。
翌日は、「海のソーラー牟岐」を調査(旧牟岐小学校の屋上に設置)。
両方の太陽光発電とも、寄付を募り地元の農魚村の産物で返し、利益金はその地域に(個人ではなく自治体などに)というもの。
メガソーラーや企業による利益優先の事業とは違う点でこういう取り組みが広がってほしい。
しかし、根本的には、国の原発優先のエネルギー政策から再生可能エネルギーへの政策転換こそ必要。これは国民一人ひとりの思いで可能な事。
香美市の木村久夫氏の歌碑を訪ねた帰りに、同じく香美市土佐山田の野中神社( お婉堂)にある歌碑を訪ねた。
私の第一集『短歌とエッセー「ありがとう」』を発行する契機ともなった故・豊島未来さんの尽力でが30数基が建立されている。
山原健二郎さんと豊島未来さんの歌碑をもう一度と思って訪ねた。最近、お婉堂への看板が設置され迷うことなく行くことができた。
マイクもつわが手にあられたばしれば粟生の里は福寿草咲く 山原健二郎
あかつきの光とどけば目鼻なき埴輪といへど睡りより覚む 未来
前方にあるのが2000年に改築されたお婉堂
野中婉の歌碑もお婉堂の前にあります。
うき雲はいつしか晴れて野に山にみのりの秋を照らす月かげ 婉のうた
(2014年7月6日記)
東京都議の河野ゆりえさんから、「この春、東京新聞に木村久夫の遺書の記事が大きく載りました。碓田のぼる先生が猪野沢温泉の渓鬼荘と木村久夫のこと、今戸ご夫妻のことを本にしていらしゃって、先日の歌会でミニ講演会をしていただきました」との便り。
いてもたってもおれず、高知県香美市香北町にある木村久夫の歌碑を訪ねた。吉井勇記念館で歌碑の場所を聞くと、歌碑の近くに住む方に声をかけたら詳しく話してくれるというので行ってみたが、あいにく留守のようだった。この方が今戸さんのようだ。
『きけ わだつみのこえ』で有名な木村さんの遺書だが、最近もう一通の遺書の存在があることと、『きけ わだつみのこえ』の文書も削除されたり加筆されている箇所があることが東京新聞などで報道されている。
歌碑は、
音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日といふ字を 久夫
と刻まれていた。
無実の戦犯として28歳で処刑された学徒兵の木村久夫氏の遺書は、今に生きる者への強烈なメッセージを残している。
「…私は戦終わり、再び書斎に帰り、学の精進に没頭し得る日を幾年待っていたことだろうか。しかしすべてが失われた。私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみにしよう」
「日本はあらゆる面に為いて、杜会的、歴史的、攻治的、思想的、人道的の試練と発達とが足らなかった。万事に我が他より勝れたりと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。 かつてのごとき我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもって排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。あらゆるものをその根底より再吟味する所に日本国の再発展の余地がある」
木村さんは旧制高知高校から京都大学経済学部に進学。思想形成を培ったのが高知だった。歌人の吉井勇、高校の恩師だった塩尻公明の影響を受けた木村さんは、山深い香北町猪野々にある猪野沢温泉(今戸さん経営)で夏休みを過ごします。その旅館の横にあったのが吉井の暮らした「渓鬼荘」だったとのこと。
(2014年7月6日記)